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卒業生の寄稿 - 2026.10.13

学生生活を振り返って

山田浩太郎|機械工学科 ●1期生

宇部高専を卒業して早くも60年になろうとしている。 80歳を迎えるこの年に第一期の卒業生が宇部に集まって記念行事を行った。歳は取ったが、学生時代の面影を持った面々が昔を振り返って旧交を温めた。その語らいと思い出をたどりながら当時のことを書き綴ってみる。

昭和37年4月、新たに設立された国立宇部工業高等専門学校に入学した。
第一期生として臨んだ入学式は山大工学部の講堂で挙行された。新入生は機械工学科80名、電気工学科40名、十数倍の中から選ばれた精鋭だ。
中学時代に進路を決めかねていたとき「工業高等専門学校というものができる」と聞いた時、躊躇なく「よし、これだ」と挑戦を決めた。受験勉強に代えて大学相当の教養、専門を学ぶことができることに共感したためだ。
当初は校舎が建設中だったため、山大工業短期大学部の建物で授業を受けた。グラウンドは工学部や常盤中を借りるといった全くの仮住まいだった。
受験がないので、進学校で受験勉強に没頭している友人とは違って自分の為になることをやろうと、好きな科目を深く学ぶことと読書に時間を費やすことができた。
授業は、特に文系でユニークな先生が多く、教科書を離れた個性的な話を聞かされた。初めて聞く、味のある話に学問の裾野が広いことを知った。国語の小川先生からは専門の考古学の立場から日本の歴史、特に古事記にまつわる話を聞いた。英語の上田先生は詩人らしく破天荒な講義で面白かったが、なぜかこの先生は苦手だった。社会など倉橋先生の講義は西洋の思想家の言葉をはじめ英語、独語が随所に飛び出して面食らったものだ。よく口に出たGesellschaft, Gemeinschaftは語り草となった。日体大を出たばかりの中山先生は兄貴分のような親しみが持てたが授業はきびきびとして容赦のないものだった。
ある夏、早朝訓練の合宿に参加した。中山先生の有無を言わせぬ指導の下でしごかれた。きつかったことだけは鮮明に覚えている。それをなんとかこなしたことで精神的にも多少なりと鍛えられたように思う。先生が指導するラグビー部で多くの学生が厳しい練習を積んでいたのを傍から見てそれこそ文武両道の典型だと思った。
体の細い私に対して、ある時中山先生から「おまえは足腰を鍛えないといかん。まずは走れ」と叱咤された。発奮してジョギングを始め、授業後に常盤池の周辺を走った。それ以来走ることを続け、社会人になってからも昼休みの時間に季節にかかわらず走った。体力のない自分が仕事に追われる厳しい現役生活の中で病気もせずに全うすることができたのはこの習慣の賜物であり、今では先生に心から感謝している。
専門科目は2年次から製図や工作実習が始まった。コンパスや烏口などを使って図面というものに挑戦した。また、大きなT定規に技術系の学生としての誇りを感じた。近年のパソコン・ディスプレイの中ではなくまさに手で描く図面だ。
当初は専門の教官が少ないため山口大など外部からの非常勤の教授方がおられた。
中でも材料力学を教わった下里教授は老学者然とした姿が強く印象に残っている。
教授陣は徐々に増えたが、中には教官としてどうかと思う人もいた。我々が若すぎたともいえるが、まじめに聴講する気のない学生が少なからずいたのは残念なことだった。
高学年になって山縣校長の熱工学の講義を受けた。その道の大御所らしく厳かな、しかも熱の入った講義だった。また、九州工大井上教授の機械力学の講義も圧巻でついつい引き込まれていったものだ。大学の講義とはこういうものかと得心した。
このような教育環境の中で多々学んだが、今専門教科の教科書とノートを読み返してみると、幅広い分野のかなり難しい内容の講義・演習を行ったことがわかる。若い時分にそのような課題をよくぞこなしたものとの驚きがある。これは仲間との切磋琢磨によるものと言える。

5年間を全うし、はじめての高専卒業生として三菱重工業に就職した。全国11高専からの受験があったが内3名のみが大学卒に交じって入社した。
長年自動車の設計業務に没頭し経験を積んだ。40歳の頃に米国駐在、50歳前後にドイツ駐在を務めた。仕事だけでなく現地生活を楽しんで、その文化や習慣に馴染んだ。ドイツ在住時には倉橋先生が拙宅に長期間逗留して欧州各地を旅された。その折高専時代の話に花を咲かせた。

退職後に一時中小企業の経営に携わり、その後中国やマレーシアに技術指導に出向くこともあった。 今は仕事から全く離れて、読書や旅行の他、地域の活動や文化講座に参加することも多い。畑で作物を育てるという楽しみも味わっている。
このようなことで充実した余生を楽しんでいる。
そのベースとなっているのは、高専での得難い学生生活と実社会での充実した経験である。

高専を選んだことの是非を考えた時、80年にわたる人生を通して振り返ると “間違ってはいなかった” と自分なりに総括できる。 それは次の理由による。

・ 自由な雰囲気の中で早くから自立心が芽生えた
・ 若い時分から、特に文科系でよい先生方にめぐり会えた
・ 学校の草創期であったということが当時、またその後の自分にとって有形無形の強さとなった
・ 大学受験に代えて自主的に勉強に取組むことができ、また多方面の本を読むことができた
・ 良い就職口にめぐり合えた(大学に入った場合はこうはうまくいかなかったろう)
・ 大卒よりも早く実社会に飛び込むことができたので彼らより多くの経験を積むことができた
・ 仕事の面で大卒にひけをとることはなかった(会社の考査の中で差をつけられることはあったように思う)

ネガティブな点をあえて挙げると:
・ 学校が工学系の小さな組織だったことと、他校との接触がなかったため友人の範囲が限られてしまった(中学時代のほうがバラエティに富んだ友人が多くいて面白い)
・ 教養・専門とも学問的に深い掘り下げに一部欠けるところがあった(実社会の努力で挽回は可能だったが)
・ 専門科目の先生に恵まれなかった(当時の印象。人物としてではなく学問上でのこと)

以上、卒業60年に際しての総括である。

2026.8.23
山田浩太郎

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